「写真は対象物にピントを合わせることによって奥行きを出す事に成功している。」

というのが、最近、取材でよくカメラを持つようになって気づいた事であります。

本来、カメラによって切り取られた映像は二次元のものであり、そこに奥行きはありません。
対象物以外を「ぼかす」ことによって視界をあたかも三次元に近づける。

その写真の空間がまるでそこにあるようなライブ感を表現することが可能なのです。

ピンぼけしている写真が気持ち悪いのは、まるで視界があっていない「不安定」な感じを与えるからでしょう。


現代美術家の方々は現代への「ピント」のあわせかたが実に巧妙だと思います。


それは、先日、現代芸術家である野口哲哉さんと話していて、

“創りたい物を創った僕自身は、現代社会に育まれた世代です。
また僕は、この社会にたいして何の不満も感じていないんですね。
そういう僕が作品を創る事によって、今の社会を肯定する事に結果的にはなると思いますし、作品を通してその気持ちを皆さんと共有できるのではないかと考えているわけですね。”

ということをおっしゃっていた時に、「現代芸術家=カメラのピント」っぽい。と思ったのがきっかけです。

「野口哲哉」さんというカメラが、「現代に育まれた自分」にピントを合わせると、こういう写真(見え方)になるというような感覚を受けたのです。


この世の中にいる現代芸術家はいろんな分類をされています。

今、ちょっとおもいついただけでも、
画家、建築家、版画家、書道家、小説家、作曲家、茶道家etc…

またそれぞれにさらに細分化された手法や流派などがあるので、全部書き出すのはおそらく不可能でしょう。

ただ、表現や作る物は違えど、現代芸術家は、現代を生きる人間である事には違いありません。

彼らの作品は、彼らの「人生」のある部分にピントをあわせて出てきたもの。

自分の中に入っている「社会に育まれたなにか」にピントをあわせて(もしくは外して)見せる。

よく学校教育の「美術」でならう、目の前の物を「写実」的にキャンバスに写し取る。という技術だけでは「人生」を表現するのには不足でしょう。

「こんなピントのあわせ方もあるんだよ」と教えてくれるのが「現代美術」の作家さんはうまいなぁ。と思います。

最近ではオートフォーカス搭載のデジタル一眼カメラもだいぶ安くなり皆が「ピント」をあわせやすい時代になりました。
ただ、その一方でまだ、ポラロイドのようなインスタントが残り続けるのは、それを良しとしない自分自身の「ピント」を大事にする方がいるからでしょうね。

oasis_sk

『ARTYOURS』のウェブ担当。
現在は、制作会社のデザイン課長。


大学ではスケボーをしながら表千家茶の湯同好会に所属。さらに学芸員の資格を取得するというやりたい事はとりあえずやってみる主義。

暴暴茶というカンフーみたいな名前のお茶が最近お気に入りです。