美術館での展示では作品にたいしての解説文を真剣に読んでいる方がよくいます。中には、その後にある「作品」はその半分も見ないで移動してしまう方もいらっしゃいます。


特に規模も大きく人気のある展示などで、多くの方が「順路」を守って一列で鑑賞されている時に良くある光景です。

かくいう僕もそんな「良く読んでしまう」一人でした。

作品の事を一生懸命知ろうと、展示してある情報を全部吸収しようとして、細かい文字が書かれている解説文を隅から隅まで読もうとする。

そして通り一遍、読んでしまうと、「わかったような気がする」のですが、でてくる感想というのは解説に書いてある事をそのままをなぞるような結果に成るのです。

それとはうらはらに、実際にお会いした作家さんが良く言うのは「解釈は人の自由だし、それが美術の醍醐味。」という事です。

僕はこの言葉を聞いてからは、解説はあまり見ずに「展示の中で自分が好きな一番の絵」を探すようにしました。
この見方の良いところは、必ず自分が気に入った理由をはっきりと説明できるところです。

そして、その好きになった絵は、作家のどのような時期に書かれた絵なのかを後で調べるとよりその人生に触れる事が出来ます。

そのほうが「絵に対する純粋な気持ち」と言う物が保てるような気がしたのです。


「言葉」でおこなう解説というのはとてもわかりやすいので、自分が解釈をする前にそれを読んでしまうと、実際に作品を見る時に「本来の自分の感覚」で感じる物を邪魔してしまいそうな気がします。

数式や漢字の様に習わないと出来ないものと違って、例えば、虹や花なんかを「美しい」と感じる事や、カレーの匂いを嗅いで「おいしそう」と思う事は、自らの経験から来る事です。

「感覚」で出来る事は、前情報を入れすぎずにまずはやってみて、自分の「素」を大事にした方がよっぽど面白い。

その答えが「退屈」だったらもう、それはしょうがないと僕は思うのです。

その人にとっては今回のものは「退屈」だった。

「良し悪し」もわからずに知ったかぶりをしながら見るよりはずっと自分の感想が出ていて有意義だと思います。
そもそも「良し悪し」がわかる目だって多くの作品を感覚で触れてきたという「経験」から生まれる物だと思います。

僕がいるデザイン業界でも、スマートフォンのアプリ制作の会議では、「UI/UX」が良く出来た「ユーザビリティ」にあふれた「キラーコンテンツ」を….なんて言葉を使ったりしがちですが、(僕もたまについ使ってしまいますが、、)そういうのは何となくですが、「優しくない」気がするんです。いかにも頭が良さそうに見えますし。

それに比べると、単純に押す楽しさなんかを追求した「ラジカセ」なんて本当に良いデザインだったと僕は思います。

子供の頃に何回もガチャガチャして怒られるまで遊んでいたあの感じ。
そういう目線で使ってもらう事を考えると良い物が出来そうな気がします。

oasis_sk

『ARTYOURS』のウェブ担当。
現在は、制作会社のデザイン課長。


大学ではスケボーをしながら表千家茶の湯同好会に所属。さらに学芸員の資格を取得するというやりたい事はとりあえずやってみる主義。

生サムギョプサルなるものが気になります。