「好き」か「嫌い」か。

この二つの感情は目の前の人間の個性を掴むのに重要な情報だと思います。

例えば、
「爬虫類が好き。恐竜みたいで。」

という人もいれば、

「爬虫類が苦手、ウロコが怖くて。」

という人もいます。

「納豆が好き。トロトロの食感が最高!」

という人もいると思えば、

「納豆が嫌い。あれは腐ってるし、匂いがえらいことになっている。」

いう人もしかり。

その感情自体に良し悪しは存在しませんが、自分の好きなことは得てして他人に勧めたくなってしまうのもまた人間。

もし、勧めた人が自分の「好きな物」に対して理解があれば、一気にその人との距離は縮む可能性が高いですが、もしその逆であれば、「理解できない」となって、それがひどい時には民族や国家をあげての戦いまで発展...何てこともある。

話が大きくなってしまいましたが、私は「好き」か「嫌い」かという感情に、人間は大きく流されていると感じる時がままあります。

その中でも「嫌い」に流されている方がタチが悪い。

「好き」を共有するときの人の顔は輝いています。
好きになったものの対象に対して声高らかに愛を語り、価値を高めようとしている。

逆に「嫌い」と思ったものを口にするときの人の顔は歪んでいます。
目を細め、他人にヒソヒソと耳打ちをし、よどんだ空気を作り出す。

ウェブの世界でも、Googleの社是が「邪悪になるな」だったり、facebookに、「いいね」ボタンのみが存在するのは上記のことを暗に示しているような気がするんですね。

だからこそ、「嫌い」なことをあえて口に出して語るのであれば、かなりの慎重さが必要なのではないかと思うのです。
自分の一言がどれだけの「悪影響」を広げるかということについて理解する必要があるとおもうんですよね。

それと同じくアートに関しての評価について、「せきやゆりえ」さんのインタビューの時に彼女が言っていた言葉を思い出します。

”「理解できない、不可解なもの」に対しての皮肉として「アートだね」と言う人や、売れなかったり、万人受けしないことへの言い訳として「だってアートなので」と言う人が多く見受けられるからです。

アートはこうあるべきだ!と強く主張する気はないですが、決して後ろ向きな意味で使ってはいけないとは思っています。”

「なんだ、これは!?」と思ったものに対して、一度キチンと考える。
理解できないことに対して、理解しようとする姿勢。

生理的に「嫌い」な部分もあるので、どうしても無理!という声もあるかもしれませんが、そうなったらもう仕方ない。
ただ、一部が「嫌い」なだけでよーく理解すると「まぁまぁ好き」な部分もどこかにみつかるかもしれないですし。

「嫌い」という感情から始めて、対象を理解することでそのもの自体を総合的に「好き」になることだったありうる。

ただ、「好き」から「嫌い」に転換した時は、怖そうですねぇ。
そういう時こそ、理性を保ちたいところです。

oasis_sk

『ARTYOURS』のウェブ担当。
現在は、制作会社のデザイン課長。


大学ではスケボーをしながら表千家茶の湯同好会に所属。さらに学芸員の資格を取得するというやりたい事はとりあえずやってみる主義。

お店で日本酒を注がれている瞬間が最近一番の幸せ。